焼酎が日本で飲まれ始めたのはいつ頃からか。十六世紀後半との説もあるが定かではない。
ところで、「焼酎」の文字が記された最古の史料は、伊佐錦のふるさとである鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社に残されている。
手のひら大の墨書きで、
「永禄二年 八月十一日 作次郎 鶴田助太郎 其時座主ハ大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ不破下候 何ともめいわくな事哉」
と柱貫の一部に書いたものが、社殿の一角にこっそりと打ち付けられていた。「神社の修理を請け負ったのに、座主は大変なケチで一度も焼酎を飲ませてくれなかった」そんなうらみの思いの端に、そこはかとないユーモアさえ感じさせる。
北薩に位置する大口盆地は、もともと焼酎づくりに欠かせない清冽な水と、良質の米、イモを生み出す肥沃な土壌に恵まれている。
まさに、「焼酎のふるさと」と呼ぶにふさわしいこの土地で、古来、日常的に焼酎が飲み交わされてきたことは想像に難くない。ひと仕事おえて、熱いお湯割りに心委ねる至福の思いは、時代を超えて今も変わらない。
芋焼酎は、生まれた時から庶民の酒。 横のつながりで飲み継がれてきた気さくで、気楽で、気がねのない「横の酒」。 上下に分かれてかしこまって飲むよりも、横の酒・芋焼酎とともに横へ横へとつながって、心と心を通い合わせるのもいいもんだ。
永禄二年 1559年(室町時代)
室町幕府(1336年~1573年)
足利尊氏によって創設された武家政権。足利幕府ともいう。将軍家の邸宅がのちに京都室町におかれたことから、一般に室町幕府と呼ばれる。
応仁の乱により、幕府の権威は衰え、下克上の世となり、末期には全国各地に戦国大名が興って、幕府は有名無実の状態となった。
焼酎を飲むと 二日酔いになりにくいとは、酒好きの間で古くから言い交わされるところである。適量をたしなむことによる酔い覚めの爽やかさは、一度でも焼酎を飲んだことのある方なら、しみじみと実感されるところであろう。
「酒は百薬の長」という言葉を身を持って体現されたのは、かつて長寿世界一と称えられた故泉重千代翁。一日二合の焼酎を毎日欠かさず飲み続け、百二十歳の天寿を全うされた。
適度な飲酒が健康を維持、促進するという説の、まさに実例といえるだろう。アルコールが体内に入ることで新陳代謝を高め、精神的にもリラックスさせてくれる。などという小理屈はあえて言うまい。なにしろ鹿児島で言うところの「だれやめ(晩酌)」の大義名分は、”だれ”=”疲れ”を”やめ”=”とりはらう”ことにあるのだから。
ところで、最近の研究では、本格焼酎には心筋梗塞や脳梗塞などの原因となる血栓を溶かす酵素を、体内で活性化させる効果があるといわれている。
専門的なことは分からないが、さつまいも、米、清らかな水と、天然のものだけで作った焼酎を毎日適量たしなむことが、日々の安らぎと明日への活力を与えてくれることは間違いない。
※二日酔いになりにくい
酒の中に不純物があると悪酔いしますが、蒸留酒なので混ざりものがありません。
日本酒やワインなどにくらべて「酔い覚めが爽やかだ」といわれます。 科学的な裏付けはほとんどありませんが、エチルアルコールが体内で分解されるときに生じるアセトアルデヒドが神経を刺激するため、というのが定説になっています。
鹿児島では「焼酎を飲もうか」という代わりに「祭りもんそか」という場合がある。 御神酒として酒を神聖視した民族的伝統から来るのか、最初のひと雫をお膳の片隅にこぼして、神に捧げてから頂くという風習もまた、ここならではのものである。
今ではあまり見られなくなったが、かつて鹿児島では客人に焼酎を強いる風習があった。本富安四郎「薩摩見聞録」につぎのような一節がある。
「薩摩にては焼酎を強ゆるを馳走とせり。客人下戸にて百万之を辞退するも決して許さず。(中略)故に客飲まざれば主人楽しまず。客人大酔いすれば一家大喜びなり。若し途中にて倒れ、或は人に扶けられて帰る等の事は、主人の最も満足する所なり」
今の世の常識からすれば過激とも思える接待振りではある。しかしながら、焼酎をこよなく愛する余り、うまい焼酎を勧めるのは至極当然という、焼酎飲みの純粋一途な心情も、汲み取れるのである。
悲しいことがあれば一杯。楽しいことがあれば、また一杯、一日を締めくくる晩酌を「だれやめ(疲れ止め)」と呼び親しむ風習もまた、焼酎を生涯のもう一人の伴侶とみなす、この土地ならではの心優しき伝統と考えたい。
「味噌なめて 晩飲む焼酎(しょちゅ)に毒はなし 煤けかかに 酌をさせつつ」これは、鹿児島県出水市にある開墾記念…
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「味噌なめて 晩飲む焼酎(しょちゅ)に毒はなし 煤けかかに 酌をさせつつ」
これは、鹿児島県出水市にある開墾記念碑、通称「味噌なめの碑」と呼ばれる石碑に刻まれている狂歌である。
上等な肴は無くとも、奥さんと差し向かいで飲む晩酌の焼酎が、毒であろうはずが無い。むしろ百薬の長、夫婦和合の秘訣と、ユーモアたっぷりに詠んだこの碑文は、焼酎をこよなく愛する鹿児島県人気質を、見事に歌いあげている。
そもそも鹿児島は高温多湿のため、清酒では腐りやすい。また、シラス土壌という恵まれない土地柄と、温暖で台風が多いという気候の中で、さつまいもは大切な救荒作物であった。
そのような事情が重なってか、芋焼酎はいつの間にか、鹿児島の気候風土と生活習慣が育んだ、まさにふるさとの文化とも呼べる酒となったのである。
鹿児島に単身赴任で訪れた人が、ほぼ例外なく焼酎党になるという話をよく耳にする。
初めは取っつきにくかった焼酎の芋臭さが、いつの間にかえもいわれぬ芳香へと変わる。
そんな心理状態の劇的変化を、現代のビジネス事情が日々生み出していると考えれば、これもまた痛快な話である。
シラス
鹿児島県本土と宮崎県南半分において、それぞれ約50%および約16%の総面積にわたって分布している特殊土の一種を指している。 火山灰が積もってできた台地で崩れやすくがけ崩れなどの災害が起きやすい土壌である。
現在、 最も一般的な焼酎の飲み方といえば、6:4、5:5 といったお湯割りであろう。あらかじめ温めたグラスに好みの分量のお湯を注ぎ、次に焼酎を細く静かに注ぐ。
しかしながら、焼酎本来の飲み方は、意外に複雑で繊細なのである。
まず割水であるが、ミネラル分を多く含む「硬水」を最上とする。コーヒーやお茶に「軟水」が向いているのと、ちょうど逆なのだ。
次に作り方であるが、焼酎に好みの分量の割水を入れ、これを温める。燗付けの温度は、各自好みの分かれるところだ。熱すぎず、ぬるすぎずが無難であろう。できれば専用の容器に入れ、直火でつけるのがよい。
この黒ヂョカ、使った後に決して水洗いをしない。使い込むほどに独特の光沢を発し、また、お湯を注ぐだけで、香ばしい焼酎の薫りが立ち上がる。
最近では、囲炉裏のあるご家庭を探す方が困難ではあるが、石油ストーブで充分に代用できる。
焼酎本来の妙味は、古式床しい作法にあり。
割水(割り水・わりみず)
鹿児島で飲んだ焼酎と、関西・関東で飲んだ焼酎の味が違うという話をよく聞きますが、水道水で焼酎を割ると味の劣化を招く事があります。 おいしい水でお試しください。
硬水・軟水
硬度が低い水を軟水(軟水は軽くすっきりした味わいが特徴)で、硬度が高い水を硬水(重くコクがあるのが特徴)といわれています。
硬度とは水の中のカルシウム、マグネシウムなどミネラル分の多い水のことをいいます。
一般に全硬度(ミネラルの含有量)が14以上を硬水、8程度を中硬水、3以下を軟水とよびます。
ブームである。本格焼酎の、である。正確には第四次ブームといわれている「ロクヨンのお湯割り」が流行語となっった一九…
]]>正確には第四次ブームといわれている。
「ロクヨンのお湯割り」が流行語となった一九七五年からの第一次ブームを皮切りに、酔い覚めの良さで健康志向にのった第二次、麦焼酎の全国的ヒットによる第三次を経て、いま、ブームとしての成熟期を迎えている。
最近テレビなどのマスコミで「本格焼酎には血栓を溶かす働きがある」このことが広く報道されたことも、また、いわゆる「幻の焼酎」騒ぎも、ブームに拍車をかけた要因といえるだろう。
焼酎が、日本を代表するスピリッツ(蒸留酒)として認められつつあることは、誠に喜ばしい。
しかしながらわが焼酎が、五百年近くに亘り先達より飲み継がれてきたのは、何よりその根底に真のスピリッツ(精神)が脈々と流れていたからではなかったか。
ひと時のブームが去ろうとも、イモ一筋の精神は永遠に止まない。
現在日本の清酒造りには黄麹が、本格焼酎造りには白麹と黒麹が使われている。ところで、明治四十年代までは、本格焼酎も清酒と同じ黄麹を使っていた。
しかし、黄麹菌を使ったもろみは腐りやすく、温暖な地方では歩留まりが悪かった。そこで注目されたのが、沖縄の泡盛に使われていた「黒麹」である。
黒麹菌にはクエン酸の生成力があって、もろみの腐敗防止に大きな威力を発揮した。
やがて大正時代になり、河内源一郎氏の手により黒麹菌から変異種の白い麹が分離され、その後さまざまな改良が加えられて、現在多くの本格焼酎に使われている「白麹」となったのである。
使う麹により、焼酎の味も違ってくる。柔らかな香りですっきりした飲み口の白麹。華やかな香りとコクのある飲み口の黒麹。
白黒はっきりとした主張があるからこそ、わたしはわたしのイモを飲む。
幻と呼ばれる焼酎がある。プレミアのついた焼酎がある。 酒販店やインターネット上では「稀少の…」とか「入手困難」と…
]]>幻と呼ばれる焼酎がある。プレミアのついた焼酎がある。 酒販店やインターネット上では「稀少の…」とか「入手困難」とかのキャッチフレーズと共に、驚く程の高値が付いた焼酎が氾濫している。
大衆の酒、庶民の味方であったはずの焼酎を、いったい誰が高嶺の花にしたのか。
元来焼酎とは、キャビネットなぞに鎮座させて、矯めつ眇めつ眺めるものではない。 「だれやめ(疲れ止め)」の言葉に象徴されるように、一日の疲れを癒す日常の酒であり、誤解を恐れずに言えば夕餉(ゆうげ)に無くてはならないテーブルワインのようなものである。
毎日一合、あるいは二合。そしてその時々の旬の肴があれば、他には何も要らない。ひとときのブームに踊らされて世間がどんなに騒ごうとも、私は、私が選んだ焼酎を飲み続ける。幻でもプレミアでも無い。生涯の伴侶と呼べる焼酎が、ここにいる。
焼酎にも、顔がある。お湯割りを飲みながら、近頃そんなことを考える。 カウンターに並ぶ焼酎のラベルの中に、いろんな顔が見えてくる。
華やかな顔。淡白な顔。 気取った顔。素朴な顔。 新しい顔。昔ながらの顔…。
伊佐錦のラベルの文字は、鹿児島県大口地方(現:伊佐市)出身の歴史小説家である海音寺潮五郎氏の筆によるもの。2001年(平成13年)は、海音寺氏生誕百年の年でもある。
「薩摩の焼酎は、日本一、いな世界一である。その薩摩焼酎の中で伊佐郡の焼酎を最上とするとは、鹿児島県内の定評である。僕のふるさとの焼酎なのである」
そんな讃辞と共に贈られたラベルの文字。技巧に頼らない、悠然とした筆使いが、この焼酎の性格のすべてを物語っている。おいしいイモは、いい顔をしている。
・国鉄分割・民営化。・俵万智「サラダ記念日」。・利根川進博士ノーベル賞受賞。・衣笠・江川、現役引退。・そして…
]]>・国鉄分割・民営化。
・俵万智「サラダ記念日」。
・利根川進博士ノーベル賞受賞。
・衣笠・江川、現役引退。
・そして竹下内閣成立。
二十世紀を象徴するかのような様々な出来事があった1987年、「黒伊佐錦」は発売されました。 昔ながらの黒麹仕込みを現代に蘇らせた、華やかな香りとコクのある味わいは、その後の各社入り乱れた黒麹焼酎路線に火を付けました。
そして2017年。発売30周年を迎えた「黒伊佐錦」は今なお、伝統的黒麹仕込み焼酎の嚆矢(こうし)として絶大なる支持を頂いております。
現在、様々な新商品が林立する本格焼酎市場にあって、「黒伊佐錦」はこれからも黒麹の本流を歩み続けます。
薩摩焼きを大きく分けると 白もんと黒もんがあり、 前者は藩主の専用窯、いわゆる御用窯として、後者は庶民の雑器として発達していった。
とりわけ、黒もんには、素朴・簡潔の徹底という陶工たちの熱い息吹が吹き込まれた。
その素朴・簡潔、しかも、ふだんの暮らしに用いられることを第一義に考えたものづくりの思想は、時の流れとともに現代へと受け継がれていく。
黒牛、黒豚、黒ゴマなどなど。「黒」と名の付く鹿児島の逸品から漂ってくる品質の確かさとつくる人の頑固なまでのこだわり。黒は玄に通じ、その道のスペシャリストでもある。
玄人が技と情熱を傾けてつくりあげた逸品に出会った時、「黒」の伝統を守りつづけたふるさとに、心から感謝の気持ちを捧げたい。
]]>清酒ならば風呂敷に一升瓶を小粋にくるんで、ぶらっと下げて親しき家に届ける。焼酎は一升瓶を二本ならべ、首に紐をかけ…
]]>清酒ならば風呂敷に一升瓶を小粋にくるんで、ぶらっと下げて親しき家に届ける。
焼酎は一升瓶を二本ならべ、首に紐をかけて双方をギュッと括る。もちろん、瓶のおなかの部分にも紐をかける。二本を括るのが鹿児島の贈答の常。
ぴったり寄り添うような姿が、贈り贈られる人の心のうちを、語っているようで微笑ましい。
たいそうお世話になった方には、一升瓶を正三角形に並べて結わえる三本括りが豪気で見栄えがいい。今ふうにいえば、過剰な包装を排した、地球にやさしい贈りものということになろうか。
この飾らない、気どらない焼酎に 贈る人の熱い思いはどんどん注がれ、杯を重ねるたびに贈られる人の心の奥にしみわたる。そして、
「カタチじゃないんだよ、大事なのは中味なんだよ。」
裸の焼酎はそう語りかけてくる。
祈り、清め、祝う。家を建てるのは一世一代の大イベントである。土地を選び、外観や間取り・内装を決め、夢がどんどんカ…
]]>祈り、清め、祝う。
家を建てるのは一世一代の大イベントである。
土地を選び、外観や間取り・内装を決め、夢がどんどんカタチになっていく。
百日足らずでできあがるのだが、地鎮祭から新築祝いまで、家の誕生に焼酎を欠かすことはできない。
一連の工程の中締めにあたるのが上棟式。
屋根にかぶら矢や五色の旗を立て、完成までの安全と築後の繁栄を祈る。
棟梁や施主が棟木に登り、四方に塩、米、そして焼酎をまく。
その後、屋根から盛大な餅まきが始まり、上棟式はクライマックスを迎える。
もちろん、餅まきの後は、棟梁以下大工さんが勢揃いし酒盛りとなる。
祈りのひたむきさ、清めの厳かさ、祝いの華やかさ、そんな場を見事に演出した焼酎は、やがて、一家の大黒柱の横で静かにたたずむ。
一日の仕事を終え焼酎をチビリチビリ。
「よか晩なあ~」のひとことで、体に元気がもどってくる。
百薬の長の面目躍如である。
そうした焼酎の癒しパワーをもっと積極的に取り入れようと、先人たちは様々な薬や健康食を開発した。
焼酎にてんか粉を加え、ドロドロ状のものを患部に塗れば、かゆいあせももひと晩でひく。
青シソを焼酎に入れ砂糖を加え、ひと月ほど寝かしたものを飲むと、のどの痛みや咳をおさえて風邪の妙薬となる。など焼酎に関する民間療法は数多い。
お隣り韓国では、 牛乳ビンいっぱいの焼酎に真っ赤になるほど唐辛子を入れ.
一気に飲み干せば風邪も吹っ飛ぶ、とか。
「おやっとさあ~なあ~。いっど、だいやめどんしっくいやん。」
こんなやさしい言葉も焼酎ならではの癒しなのである。
米や芋など農産物は大地の神に、魚や貝類は川と海の神様に感謝する。八百万の神々を迎え入れる日本人は、自分たちの力を…
]]>米や芋など農産物は大地の神に、魚や貝類は川と海の神様に感謝する。
八百万の神々を迎え入れる日本人は、自分たちの力を超越したものへ、畏敬と感謝の念をはらい供え物をしてきた。
やがて、人と人の間にもそうした風習が伝承されていく。
年下の者が目上の者へ、師弟が恩師へ、その土地で取れた物産を節目節目に贈ることが、ならわしとなった。
御歳暮もそうした中から生まれ、正式には歳暮祝いとして贈り、いただいた方は歳暮返しをした。
使用人から歳暮をいただいた親方は、お返しに焼酎を贈ることも多かったという。
どうぞこの焼酎でゆく年をふりかえり、くる年に新たな夢をたくしてくれとの心づかい。
焼酎を酌み交わすことで深まる絆があり、贈り贈られることで強くなる縁もある。
人と人を結び合う大地の芳醇なる贈り物に、感謝。
「田舎から焼酎が送ってきた」そう言って、鹿児島生まれの友が、一升瓶を裸のままぶら下げてきた。ヤカンをコンロにか…
]]>そう言って、鹿児島生まれの友が、一升瓶を裸のままぶら下げてきた。
ヤカンをコンロにかけてお湯をわかし、コップにゴボゴボ半分ほどお湯を入れ、一升瓶から芋焼酎をドボドボそそいだ。
その瞬間、芋焼酎独特のあたたかい香りがひろがった。
そして部屋の中に陽が射したように、焼酎をそそいだグラスが輝いた。
「乾杯!」
友はゴクッと三分ほど飲み、お互いとびっきりの笑顔になった。
「それ、飲め!」
「グッと、いけ!」
そんな調子で焼酎も話もはずんだ。
語りながら、笑いながら、グラスをかざすと、焼酎の海がきらめいて、今宵はこの海で真っ黒になるまで浴びていたいなと、とてもホットな気分になっていた。
彼は南国のギラギラ輝く太陽を持って来たのかもしれない。
陽の酒「芋焼酎」に、感謝!
大地に蒔いたひと粒の種は、あたたかい陽を浴び、雨にうるおい芽を出し、葉をひろげ、花をつけ、実を結ぶ。
芋焼酎の主原料であるサツマイモも、母なる大地ですくすくと育つ。
手にとれば土の香りを放ち、洗ってあげれば純朴な少年のようにはにかむ。
そのサツマイモに感謝の気持ちをささげながら、人々は丹精こめて最高の焼酎に仕上げていく。
「地酒」とは、その土地でしかできないこだわりをもった酒である。
口にふくむと、大地のぬくもりがひろがるし、体にしみわたる時には、かすかに大地の鳴動のような興奮を覚える。
土が育ててくれたから、親しみがわく。
土の力が伝わるから、元気が生まれる。
一升瓶をまんなかに据え、車座になってわいわい飲む。
右側から手が伸び一升瓶をつかむと、
「まあ、どうぞどうぞ」とグラスにそそぐ。
まんなかにもどってきた一升瓶を、今度は左側から伸びてきた手がつかみ、「やあやあ、よか晩ですなあ」とトクトク。
再びまんなかにもどるやいなや向かい側から手が伸びて、「おつかれさまです」とトクトクトク。
車座には、上座も下座もない。
隣りどうしでグラスを傾け合って、飲むほどに、話の輪がひろがっていく。
芋焼酎は、生まれた時から庶民の酒。
横のつながりで飲み継がれてきた気さくで、気楽で、気がねのない「横の酒」。
忘年会などなにかと酒宴の多いこの季節。
上下に分かれてかしこまって飲むよりも、横の酒・芋焼酎とともに横へ横へとつながって、心と心を通い合わせるのもいいもんだ。